2009年06月25日

イギリスは戦後もしばらくの間はインドを統治し続けたが

イギリスは戦後もしばらくの間はインドを統治し続けたが、大戦によりイギリスの国力は疲弊し、大英帝国を維持することが出来なくなった[51]。

また、マハトマ・ガンディーやジャワハルラール・ネルーらインド国民会議派が指導する独立運動の激化並びにヒンズー教徒とイスラム教徒との間の宗教対立にイギリス政府は耐え切れなくなったことも相俟って、アトリーは1947年2月20日、インドから1948年6月までに撤退することを決断し、ルイス・マウントバッテンを最後のインド総督として派遣した[52]。

マウントバッテンはネルー達に、ヒンズー教徒が多いインドとイスラム教徒が多い東西パキスタンに分割独立する案を受諾させ、また藩王国が印パに所属する過程が円滑に進むように、イギリス連邦に加盟することまでも受諾させる事に成功した[53]。そして、アトリーが当初宣言した予定より1年早い1947年8月15日、イギリス領インドは、ヒンズー教徒が多いインドと、イスラム教徒が多い、パキスタンに分割独立した(東パキスタンを構成するバングラデシュは1971年、パキスタンより独立した)。

しかしこの様なイギリスの都合に合わせ性急に行われた分割独立が、その後のインドとパキスタン両国の間における対立を引き起こし、その後も両国は対立を続けることになる。

イギリスの植民地である両国は安全保障をシンガポールを拠点とするイギリス軍に依存していたが、マレー作戦およびシンガポール陥落以後に、オーストラリアが日本軍にダーウィン空爆やシドニー湾攻撃などの被害に遭ったことを受け、安全保障のパートナーを宗主国の英国からアメリカに変更。ANZUSが成立する。
オスマン帝国領をイギリスとフランスで分割したサイクス・ピコ協定によってパレスチナはイギリスの委任統治領となった。

1929年に始まった第5アリヤ(パレスチナへのユダヤ人の移住)は、雨垂れ式であったが、ヒトラーが権力の座についたことで、1933年から36年の4年間で、164,267人のユダヤ人が合法的に移住した[54]。その結果、パレスチナにおけるユダヤ人人口は、40万人に達した。そのことが、土着していたアラブ人との対立を招く結果となった。

スキューバダイビングに挑戦!
素肌のエクステ
ゴルフレッスンの日々
こだわりのレストランを探そう!
クラシックのグッドナイト
アロマタイムスイッチ
コスメ・メイク図鑑博士
ひまわりの天気予報
セレブな快適通販・取寄せライフ
キャンプねっと。ファミリー特集!
クリームソーダで保険比較
賢く検定・大好き
首都圏の素敵な部屋
車で行こう!道しるべ
WEBマーケティングノウハウ
フラワーパークで春夏秋冬体験講座
40歳の素敵な出会い
はじめての投資に挑戦
ウサギの人材派遣でお仕事
クロールアイドルNO1
こだわりキャンプ術
うらないカフェの秘密の部屋

ホロコーストとアトリー政権の親ユダヤ政策が、パレスチナの混迷をさらに招く形となった。1945年8月、トルーマンは、アトリーに書簡を送り、ホロコーストで生き残ったユダヤ人10万人のパレスチナ移住許可を求めた。

イギリスは、フランスとは異なり[55]、パレスチナの委任統治を継続したが、パレスチナの治安情勢の悪化とエクソダス号事件によって、委任統治を放棄することを検討しだした。

1948年5月16日、イスラエルは、独立を宣言。同時に、第一次中東戦争が勃発した。イスラエルは、国連決議よりも割り当てられた領域よりも広い領域の確保に成功するとともに、この戦争がパレスチナ難民問題を生み出す契機となった。

2009年06月10日

日本政府および日本国民の憲法改正動向

降伏直後から、日本政府部内では、いずれ連合国側から、大日本帝国憲法の改正が求められるであろうことを予想していた。しかし、憲法改正は緊急の課題であるとは考えられていなかった。

日本政府によって、それが緊急の課題であると捉えられたのは、1945年(昭和20年)10月4日のことである。この日、マッカーサーは、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に、憲法改正を示唆した(昭和20年10月4日付「近衛国務相、「マックアーサー」元帥会談録」[4])。
ペットの医学
家庭用語
ハーブ園芸案内
おしゃれ用語
お茶だ百科
日本の経済
ステキな花言葉
海水魚
美肌美人
ステキ・手作り
絵本
経営工学
ドッジボール
美容外科
アームレスリング
川崎病
沖縄
サルサ (ダンス)
天文学
衛星放送
投資信託
体操
子宮内膜症
絶滅危惧種
薬剤師
テレビ番組
整形外科学
錬金術
毒性学
超能力

なお、この日、総司令部は、治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃など、いわゆる「自由の指令」の実施を日本政府に命じた。翌5日、東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職し、9日に幣原喜重郎内閣が成立する。
同11日、幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際にも、マッカーサーから口頭で「憲法ノ自由主義化」の必要を指摘された(昭和20年10月11日付「幣原首相ニ対シ表明セル「マクアーサー」意見」[5])。

先にマッカーサーから憲法改正の示唆を受けた近衛(東久邇宮内閣の総辞職後は内大臣府御用掛)は、政治学者の高木八尺・東京帝国大学教授、京都から招いた憲法学者の佐々木惣一(10月13日内大臣府御用掛に任命)、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始した。10月8日には、近衛は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。また、近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した(10月13日閣議了解、10月25日設置。)。

こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることとなった。このうち、近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である内大臣府で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった。11月1日、総司令部は「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが近衛に伝えた憲法改正作業の指示は、近衛個人に対してではなく、日本政府に対して行ったものであるとの声明を発表した。これにより、近衛らの調査活動は頓挫したものの、近衛らは作業をつづけ、11月22日に近衛案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」[6])、11月24日に佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要」[7])をそれぞれ天皇に奉答した(なお、総司令部の指示により、11月24日に内大臣府は廃止された。)。

2009年06月06日

鉢植えをより美しく演出するため、古来から

鉢植えをより美しく演出するため、古来から展示方法もさまざまに工夫されて来た。しかし、場合によっては鉢を隠す演出も見られる。

室内等で鑑賞する場合、排水孔から流れ出る余剰な水を受けるための受皿を併用することが多い。欧米では、排水孔のある植木鉢には普通同じ材質、デザインの受皿がセットで製造、販売されることが多い。その場合、受皿の口径は原則として植木鉢の口径に等しい。更に受皿の下に、受け布を敷くこともある。ある程度まとまった数の植木鉢を陳列する時は、数鉢分が収まる大きな金属製の受皿を使うこともある。

培養土の表面には、化粧砂が施されることもある。多くは植物名や品種名を記した名札、ネームプレートが鉢の縁に設置される。これらは現代ではプラスチック製が多いが、凝ったものでは漆塗りや陶磁器のものがある。

駄温鉢やビニールポットの場合は鉢カバーを使うこともある。また欧米では鑑賞鉢にすっぽりと収めて飾ることも多い。

欧米の大型鑑賞鉢は、単独で床に直接設置する場合は、椅子の生活スタイルから、高さ数十センチメートルのスタンドが使われる。これも植木鉢と同質、同柄でセットになっていることが多いが、木等で別に作られるものもある。また鉢とスタンドが一体化して作られているものもある。センターピースとして卓上に飾るものは、脚付きの台が付属していることがある。

盆栽では、室内では多くの場合入念に装飾が施された紫檀などの唐木で作られた台を設置し、その上に置くことが多い。台は多く植木鉢の形に合わせたものが用いられる。

古典園芸植物では、いくつかの方法がある。古典菊では、屋外に「花壇」と呼ばれる横長の長方形の展示場を設営する。三方をよしずで囲い、屋根を設け、背景には障子を配することもある。植木鉢は三列から五列に並べ、地面を掘るか土を盛り上げて埋め込み、地面から植物が生えているように見せることもある。肥後花菖蒲や肥後朝顔では室内に毛氈を敷き、一列に鉢を並べ、背後には屏風を立てる。オモト等では、一鉢ずつ木製の台に載せることが多い。サクラソウでは、屋外に「花壇」と呼ばれる屋根付き展示台を作る。菊花壇に類似するが五段の棚を持ち、33鉢から36鉢を陳列する。
介護 抜け毛 不用品 学習指導 生活雑貨 音楽 旅行 美容室 特産物 化粧品 内職 趣味 雇用 家具 介護 仏具 アレルギー 結婚 楽器教室 九州沖縄 学校 スポット 若返り 在宅 サプリ SOHO 住まい アレルギー 占い マッサージ 化粧品 資格 アレルギー 雑貨 予備校 ホテル スクール 水族館 ダイエット 税理士 SOHO 金融 損害保険 アレルギー インテリア マッサージ 墓石 パソコン 交通地図 教育

イギリスのオーリキュラなどフローリスツ・フラワーでも、18世紀から展示台に多数の鉢植えを陳列した。これを舞台に見立てて、「シアター」または「ステージ」と呼び、豪華な装飾を施し、実際の劇場のようにオペラカーテンを備えたり、ランプを備え付けて照明するものもあり、背景には風景画を描いたり、鏡を貼って後ろ側も見えるようにしたり、黒のヴェルヴットで覆い花を浮き立たせたりするなどの試みが行なわれた。

この他園芸の進展に合わせ、ヴィクトリア時代には特に金属製の洒落た植木鉢スタンドが流行し、多くは数段からなる角形や円形、半円形などのさまざまなものが市販されていた。また、水槽や鳥籠、噴水、彫刻などとセットになったものもあった。

イベント的な花の展示会では統一感の演出のため、多くの鉢植えを樹皮チップ等ですっかり覆い、同一の地面から生えているように見せかける手法もよく採られる。

なお、工芸品として、それのみで鑑賞に値する植木鉢も少なくないが、全体的に見て植木鉢は日用品扱いされ、一般に陶芸の世界では植木鉢は重視されていないことが多い。

2009年04月23日

和傘と洋傘

手で持つ棒(軸=中棒=シャフト)の先端から放射状に細い棒(親骨)を出し、これに薄い幕(傘布)が張られているという基本構造、及び未使用時には折り畳んで収納可能という点は両者に共通するものであるが、和傘が主に紙(油紙…防水加工した和紙)や竹を、洋傘が防水加工した木綿、絹、ナイロン、ポリエステルなどを材料とする所に大きな違いがある。

和傘
古代に大陸から伝来したため、「唐傘(からかさ)」という説が一般的だったが、日本で開閉式に改良したことで、唐繰傘(唐繰は絡繰と同義語)とよばれ唐傘となったとされる。竹を材料として軸と骨を製作し、傘布に柿渋、亜麻仁油、桐油等を塗って防水加工した油紙を使用した物である。防水性には大変優れているが、耐久性に乏しく、また、重いという欠点がある。

和傘には番傘と蛇の目傘(じゃのめがさ)の種類があり、この内、蛇の目傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見た際に蛇の目模様となるようにした物で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗るなどのバリエーションも見られる。

家電・癒し関連通販ショッピング全国情報ガイド
学校・語学関連教育情報
観光・特産物関連国内 宿泊総合
香水・若返り関連コスメチック全国情報ガイド
独立開業・エージェント関連ビジネスオンラインネット
老人ホーム・グルメ関連ライフスタイルポータル情報
ニュー木の実ようこそ健康サーチ
花・贈り物関連ネットショッピング
教育・学習指導関連教育ランドガイド
交通・動物園関連トラベル総合

洋傘の骨が数本程度に対して、和傘の場合サイズにもよるが数十本の骨が用いられる。これは洋傘と傘の展開方法が異なるためで、余った被膜を張力で張るのではなく、竹の力により骨と張られた和紙を支える仕組みとなっているためである。
窄めた際に和紙の部分が自動的に内側に畳み込まれる性質を持つ。
和傘は洋傘のように逆さに傘を立てて保管すると雨水が頭頂部に溜まり、浸水により破損する危険がある。そのため、天井や軒先からつるす様に保管する必要がある。
長期で利用すると素材の特性で色が移り変わる。
展開の際には一般的に下向きに展開し、その後上に向ける。これは上向きに展開するには重量が過大であること、過度な力がろくろや骨にかかることを避けるためである。
和紙を多用するため、虫食い、湿気による侵食、多雨時の防水性に問題が生じる。
自然素材を多用した結果、洋傘に比べて重量がある。
雨傘の場合、長期仕様しないと防水用の油がくっつき、展開に手間取る場合がある。

和傘の歴史
東洋では、傘はまず、魔除などの目的で、貴人に差しかける天蓋(開閉できない傘)として古代中国で発明され、その後、飛鳥時代の552年に仏教の儀式用の道具として朝鮮半島(百済王)から貢物として日本に献上され、「きぬがさ」(絹笠、衣笠)と呼ばれた。

その後、平安時代に製紙技術の進歩や竹細工の技術を取り込んで改良され、室町時代には和紙に油を塗布する事で防水性を持たせ、現在と同じ用途で広く使用されるようになった。

また、それと共に傘を専門に製作する傘張り職人が登場して、技術が進歩し、『七十一番職人歌合わせ』には傘張り職人の姿が描かれているほか、奈良の大乗院には唐傘座が組織された。

更に安土桃山時代に、呂宋助左衛門によって呂宋(フィリピン)からろくろを使用して開閉させる傘が輸入され、江戸時代に広く普及するようになった。元禄年間からは柄も短くなり、蛇の目傘がこの頃から僧侶や医者達に使用されるようになったほか、その広げた際の面積の大きさに着目し、雨天時に屋号をデザインした傘を客に貸与して、店の名前を宣伝して貰うといった事も行われたほか、歌舞伎の小道具としても使用されるようになった。また、その製作過程は分業化され、江戸時代には失業した武士が副職として傘を製作する事もあった。長野県下伊那郡喬木村における阿島傘などはその一例で、今日でも同村の特産品となっている。

しかし、明治時代以後の洋傘の普及により、和傘は急速に利用されなくなっていった。現在では雨傘としての利用はほとんどなく、観光地での貸し出しや、日よけ用として旅館や和菓子屋の店先、野点用などに、持ち歩くのでなく固定して利用される程度である。 現在では岐阜、京都、金沢、淀江、松山等に少数の和傘製造店が残っている。

洋傘
構造的には、大別して、骨を折り畳んで収納出来る折りたたみ傘と、折り畳めない物に分かれる。折りたたみ傘は、収納時の大きさと骨の長さに応じて骨が2段階、或いは3段階に折れ曲がる構造である。

傘を開く際には、各骨を支える棒(受骨)を束ねた部分(下ろくろ=ランナー)を、軸に沿って押し上げる必要がある。これをバネの力を利用して自動化した物が「ジャンプ傘」と呼ばれる物で、最近では、閉じる事も自動化した物が製作されている。

また、通常、洋傘の骨は6本または8本だが、デザインや耐久性の点から和傘同様に16本や24本とした物もある。特に16本の物は、菊の紋章の花弁数と同じであるため、皇室で使用されている。

また、最近では傘布としてビニールシートを使用したビニール傘が製作されている。軸や骨も必要最小限の強度を満たすだけの素材と構造になっており、価格も数百円で販売されており、多くは使い捨て目的として使用されている。なお、高級なビニールと細かい加工を施した高級ビニール傘もある。透明なビニールを傘布に使用している所から、使用時に前方に傾けても視界が遮られないという特長があり、安全面を重視して子供に持たせたり、TVの屋外中継でレポーターやタレントが使用する事がある。また、東京ヤクルトスワローズの応援団によって得点が入った際に青や緑・ピンクの物を広げて東京音頭を歌う際に使用されている。

2009年04月19日

東南アジアの植民地化

19世紀になると、東南アジアは、次々とヨーロッパの植民地に組み込まれていった。現在のマレーシア、シンガポール、ブルネイ、ミャンマーはイギリス領に、ベトナム、カンボジア、ラオスはフランス領に、インドネシアはオランダ領となった。フィリピンは16世紀以来スペインの支配が続いていたが、米西戦争でスペインとアメリカ合衆国はフィリピンをめぐって戦争が起きた。植民地化を免れたのは、タイのみだった。

1786年、インドと清国を結ぶ中継地として、イギリス東インド会社は、マレー半島のペナン島に注目した。イギリス東インド会社は、クダー王国のスルタンに迫り、ペナン島を割譲させた。また、ナポレオン戦争によって、オランダの支配が東南アジアに及ばなくなるとイギリス東インド会社は、次々とオランダ東インド会社が統治する地域を陥落させた。その中で、マレー半島のマラッカは、一度は、ナポレオン戦争後にオランダに返還されたが、1824年の英蘭協定によって、イギリスに帰属することとなった。加えて、1819年にはジョホール王国のスルタンから、シンガポール島を割譲させることにより、海峡植民地が完成した。

1848年、ペラー王国でスズの大鉱床が発見されるとイギリスは半島部の開発に着手した。スズ鉱山の開発には中国人労働者が従事した。また、天然ゴムやパームヤシのプランテーション経営が展開されることとなり、タミル人がインドから半島部に流入することとなった。19世紀の人口流入が21世紀の現在に至るマレーシアの多極共存構造が形成される一因となった。その後、半島部マレーシアは、イギリスと各州のスルタンとの間で確執、衝突が繰り返されることとなった。しかし、1895年には、海峡植民地とスランゴール、ペラー、ヌグリ・スンビラン、パハンの4藩王国(この4王国でマレー連合州が形成される)の行政組織を1つに統合した。さらに、1909年、タイ王国に服属していたクランタン、トレンガヌ、クダーの各王国をタイ王国から割譲させると同時に、独自に近代化の努力を行っていたジョホール王国にも理事官を派遣した。これにより、現在の半島部マレーシアは、イギリスの支配が完成することとなった。

1868年には、タイ王国でチュラチョームクラオ(ラーマ5世)が15歳で、即位した。ラーマ5世は、1885年以降、本格的な国内改革を行うことで、タイの近代化を推進した。当時のタイには、タートと呼ばれる一時的に身体の自由を奪うことを承諾し売買も自由である一種の奴隷が存在したが、彼らを解放し平民に加えた。また、義務教育制度を導入するとともに王室指定の留学を促進させた。さらに、中央集権政策の一環として陸軍を中心に近代化を行い、各地の反乱の鎮定に役立てると同時に、イギリス、フランスの進出の抑止力と足りえた。加えて、モントン(州)と呼ばれる地方制度を導入し、中央集権化を図った。インフラストラクチャーの整備に腐心することとなった。

しかし、ラーマ5世の改革は、ある程度成果を収めたが、イギリスやフランスと対抗するには不十分だった。フランスには、現在のカンボジアやラオスを割譲することとなったし、前述の通り、イギリスにはタイ王国に服属していた半島部マレーシアの3藩王国を割譲した。

ナポレオン戦争後、イギリスは実行していた現在のインドネシアをオランダに返還した。1830年、ベルギーがオランダから独立するとオランダは、経済をますますオランダ領東インドに依存する結果となった。強制栽培制度(id:Tanam paksa)と訳出される制度をインドネシアに導入し、現地住民に指定の農作物、例えば、コーヒー、サトウキビ、藍、茶、タバコといった国際市場で有望な農産物を強制的に栽培させ、その農産物をヨーロッパへ転売した。

イギリス、オランダに続いて、東南アジアへ参入したのがフランスだった。阮福暎は、1789年に、フランス人宣教師であるピニョー・ド・ベーヌ(en:Pigneau de Behaine)の集めた傭兵部隊の協力を得て、サイゴン(現在のホーチミン市)、フエを次々と攻略し、1802年には、タイソン朝を滅ぼし、フエを首都に、阮朝が成立した。

阮朝は、第2代皇帝・明命帝の際には、フランスからの通商の要求を拒否するとともに、清国へ服属の意思を表明する一方で、いわゆる「まんだら」システムに基づいて、カンボジアやラオスに対して、服属を求めた。カンボジア・ラオスへの進出は、タイとの衝突が起きたが、タイ優位に情勢は傾いていった。さらに、明命帝は、キリスト教の禁止を実施することとなった。

パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

ベトナムへの進出をあきらめることができなかったフランスは、1858年、サイゴンへ海軍を派遣し、1862年には、第1次サイゴン条約が締結されるに至った。この結果、フランスは、ベトナムから南部コーチシナ3省が割譲されることとなった。同時に、カンボジアの保護国化にも成功した。フランスのベトナム植民地化は、1884年の清仏戦争後に締結された天津条約で完成する。北部(アンナンと呼ばれた)は、阮朝が建前上残ったので保護国とし、中部(トンカン、あるいはトンキンと呼ばれた)は、保護領であり、南部は直轄植民地として、ベトナムを経営した。ベトナムの植民地化に成功したフランスは、メコン川を遡り、1893年の仏泰戦争で、タイを圧倒すると1904年には、保護国化が完了した。ここにフランス領インドシナが完成することとなった。

最後に、東南アジアに進出を行ったのが、アメリカ合衆国だった。1890年に、フロンティア消滅を宣言すると、アメリカの関心は、太平洋に向かった。1898年2月15日、キューバのハバナ湾に停泊していた戦艦メイン号が爆破されるとアメリカ国内の世論は、スペインへの報復を支持する動きが高まった。当時の大統領ウィリアム・マッキンリーは、高まる開戦の世論を何とか阻止しようとしたが、4月には、キューバ独立のために、スペインが撤退することを促す議会可決を承認すると同時に、スペインと交戦状態になった(米西戦争)。フィリピン、キューバ、グアムの各地で、スペインを圧倒したアメリカは、8月12日に停戦し、12月10日に締結されたパリ条約でもって、スペインの植民地のほとんどを獲得するにいたった。しかし、フィリピン戦線の緒戦であるマニラ湾の戦いとその後のマニラ入城の際に、共闘したフィリピン軍をマニラに入れなかったために、アメリカとフィリピンの間で対立が生じることとなった。その結果、14年間に及ぶ米比戦争が始まった。

2009年04月04日

大ノ里萬助

大ノ里萬助(おおのさと まんすけ、1892年4月1日 - 1938年1月22日)は大相撲の力士。最高位は大関。1892年(明治25年)4月1日青森県南津軽郡藤崎町に生まれる。本名天内萬助。体格は164cm、97kg。

来歴 [編集]
元々相撲が好きで1910年(明治43年)に大相撲入りを決意、翌年周囲の制止を振り切って入門を志願、その小ささから驚かれたが熱心さを見た若松が入門を許し1912年(明治45年)1月場所初土俵。1918年(大正7年)5月場所新入幕、4勝5敗1分と負け越すが番付が1枚上がり翌場所には8勝1敗1分けの好成績、1920年(大正9年)1月場所には鳳から金星を獲得。1922年(大正11年)1月場所小結、同年5月場所関脇、1923年(大正12年)1月場所は平幕に下がるがこの場所新横綱の源氏山(のち3代西ノ海)から金星を獲得し1場所で関脇に戻る。1924年(大正13年)5月場所9勝2敗の好成績を挙げて大関になった。この間、兄弟子の八甲山とともに若松部屋から離脱、八甲山は独立して高島部屋をおこしたが、大ノ里は湊川部屋預かりから出羽海部屋に所属した。優勝はないが立派に大関を務め続け、向上心を失わずに稽古に取り組む姿勢や温厚な性格、若手に対する熱心な指導のために「相撲の神様」と呼ばれ、多くの力士たちの人望を集めた。しかし小兵ゆえの弱点を突かれて1929年(昭和4年)以降は6勝5敗という成績が増えた。1931年(昭和6年)5月場所と10月場所は4勝7敗の負越。

1932年(昭和7年)1月6日に発生した春秋園事件では盟主となり相撲協会を脱退、関西角力協会の大関を務め1935年(昭和10年)に引退してからは大の里萬助として取締や頭取を務めた。しかし1937年(昭和12年)12月には解散の憂き目に遭い苦労がたたったか肋膜を患い、愛弟子達の帰参を見届けた所で1938年(昭和13年)1月22日に満州(現・中国東北部)・大連の赤十字病院で独り寂しく45歳9ヶ月の生涯を閉じた。

大ノ里の訃報の翌日、出羽海部屋に彼の最後の手紙が届いた。出羽海部屋に帰参した自分の愛弟子たちのことを、死の床にあっても気遣い激励する内容を見て、愛弟子たちは慟哭したという。「悲劇の大関」と呼ばれる。

藤ノ里の叔父。

1960年(昭和35年)8月1日、青森県藤崎町の鹿島神社境内に記念碑の除幕式が行われた。

成績 [編集]
通算成績:262勝160敗8分4預22休 勝率.621
幕内成績:217勝147敗6分4預22休 勝率.596
大関成績:145勝99敗20休 勝率.594 
幕内在位:37場所(うち大関24場所、関脇4場所、小結1場所)
優勝旗手:3回
金星:2個(鳳、源氏山)

あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

2009年03月21日

つばめ (列車)

つばめは、2004年(平成16年)3月以降、九州旅客鉄道(JR九州)が九州新幹線で新八代駅・新水俣駅・川内駅〜鹿児島中央駅間を運行している新幹線列車の愛称。

「つばめ」の名称はその起源を1930年(昭和5年)10月まで遡り、戦前・戦後を通じ国鉄を代表する特急列車の愛称とされてきた、伝統ある列車名である。この系譜は1975年(昭和50年)3月以降一時途絶していたが、1992年(平成4年)7月JR九州の鹿児島本線で復活した。その後2004年(平成16年)3月に、九州新幹線が愛称を引き継いだのが現在の特急「つばめ」である。ここでは過去に運行された「つばめ」号についても記載する。

在来線特急「リレーつばめ」 [編集]
エル特急「リレーつばめ」は、2004年(平成16年)3月より、九州新幹線暫定開業に合わせて運行が開始された。新八代駅新幹線ホームにて、新幹線「つばめ」号に接続し、同駅発着で熊本駅・博多駅まで鹿児島本線を経由して運行される在来線特別急行列車である。運行形態として、新幹線「つばめ」号と一体的に取り扱っており、列車運用面・料金面でも関連性が強いことから、本稿で一括して記述する。

基本的には、1992年以前の鹿児島本線エル特急「有明」の鹿児島中央駅(当時は西鹿児島駅)発着列車を改称した「つばめ」の残存区間での運行であるが、熊本駅以北では「有明」に対して一定の速達列車として存在する。なお、列車号数は運行順ではないが、これは下記にあるように「つばめ」との一体化を目指した為である。その為、「つばめ」では各駅停車タイプに接続する列車でも速達列車として運行されるものが数便ある。


特急「はと」 [編集]
特急「はと」は、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)6月から1975年(昭和50年)3月まで、「つばめ」とほぼ同区間を運行していた特急列車の愛称である。「つばめ」の姉妹列車的な存在であり関連性が深いことから、本項においては「はと」の愛称を使用した列車も併せて記述する。


九州新幹線「つばめ」(現在の運用について) [編集]
九州新幹線が暫定的な開業であることもあり、新八代駅では「リレーつばめ」・「つばめ」が同一ホームに発着し、日本では初めて新幹線と在来線が同一ホームで乗り換えを行っている。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

下り 「リレーつばめ」→「つばめ」
新八代行き「リレーつばめ」では、行先表示・構内や列車内での案内は「鹿児島中央行き」となっている(ただし、新八代駅到着時に行先表示器は「新八代行き」の表示になっている。また、災害などで新幹線がストップした時などにも、同様の扱いとなる場合がある。)。
「リレーつばめ」が停車する各駅では、「この列車は、新八代駅で新幹線つばめ号鹿児島中央行きに接続しています(停車駅の案内は、在来線駅停車駅のみ説明する)。」との構内アナウンスがある。
上り 「つばめ」→「リレーつばめ」
新八代行き「つばめ」も、「リレーつばめ」に接続する列車には、「リレーつばめ」の終着駅の行先表示・構内や列車内での案内がなされている(ただし、新八代駅到着時に行先表示器は「新八代行き」の表示になっている。)。
「つばめ」が停車する各駅では、「この列車は、新八代で○○行き特急リレーつばめ○号に接続いたします(停車駅の案内は、新幹線駅→在来線駅両方説明する)。」とのアナウンスがある。
なお、「リレーつばめ」と「つばめ」の特急券は一枚で発行することができ、利用者の利便を図っている。また両列車の指定席特急券を同時に購入した場合は、席番まで同じになる傾向がある。この「つばめ」と「リレーつばめ」の両列車に係る特急券制度についての正確な内容は、九州新幹線に関する乗り継ぎ料金制度も参照されたい。

2009年03月06日

浜通り地方の平の町で大勢の人が集まって

お歯黒べったり(おはぐろべったり)は、歯黒べったりとも言い、妖怪の一種。目も鼻も無い顔に、お歯黒を付けた大きな口だけがある。お歯黒は、江戸時代には既婚女性が行なった化粧の一種で、鉄片を酒・茶・酢で酸化させた液で歯を黒く染めるもの。当然お歯黒べったりも女の妖怪である。人を驚かせるだけで、危害を加える事はない。

江戸時代後期の画家竹原春泉作の『絵本百物語(別名『桃山人夜話』)』に姿が描かれている。詞書には、「ある人が古い社の前を通った時、美しげな女が伏し拝んでいるので、戯れに声を掛けて過ぎようとしたところ、その女が振り向いた。顔を見ると目も鼻も無く、大きな口でけらけらと笑った。二度と見たくないほど恐ろしかった」という意味のことが記されている。また、「東国では『のっぺらぼう』とも言い、多くは狐狸の化け損なったもの」ともある。『絵本百物語』のお歯黒べったりは角隠しを着け、美しい着物を着た姿で描かれているので、結婚前に死んだ女性の亡霊とも言われるが、角隠しは、もともと浄土真宗信者の女性が寺参りに際して着用する物であったから、断定はできない。また、のっぺらぼうは小泉八雲の短編『むじな』にあるように、むじな・狐・狸などが人を驚かせるために化けたものであるとも言い伝えられるので、お歯黒べったりもその類とも考えられる。

その他の資料
水木しげる『図説日本妖怪大全』には、お歯黒べったりは夕闇迫る町外れの神社や寺に現われ、通りかかった人を驚かせ、稀には家の中にも出たと書かれている。山田野理夫『東北怪談の旅』には、恐らく江戸時代の、福島県の話として概略次のようなものがある。これもお歯黒べったりの一種であろう。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

浜通り地方の平の町で大勢の人が集まって盆踊りをしていた夜の事、1人の若い女が人々の目を引いた。手ぬぐいをかぶっていたので顔はわからないが、姿は美しかった。夜が更けて踊りが終わると、興味を持った3人の若者が女の後を追いかけて、いい踊りだった、誰もあんなにきれいに踊れない、などとほめた。女が、ほめてもらったお礼がしたいが、と返すと調子に乗った男たちは、あんたの体でもいいぞ、と言う。女は恐れるふうもなく、1人ずつ草むらで相手をした。別れ際に若者たちが、また会いたいから顔を見せてくれと頼むと女は手ぬぐいを取った。その顔にはお歯黒を付けた口だけがあった。むろん若者たちは肝をつぶして逃げ去った。話を聞いた町の者は、お歯黒をしていたのなら誰かの女房だ、と首をひねったと言う。

2009年02月14日

DALK外伝

絶対神フラドに、ヴァルガに寄生した寄生魔神を倒すよう命じられたマーティス。だが面倒くさいと言う理由で断ると、キレたフラドにより人間にされてしまい、寄生魔神を倒すまで元に戻さないと言われてしまう。
嫌々ながらも引き受けたマーティスだが、恋愛男神故に性別が男の生物には完全に無力である為、7人のメイド達に代わりに戦ってもらうことになった。

恋愛男神マーティス(れんあいだんしんまーてぃす)
恋愛を司る神。女性の感情の管理を行う。
絶対神フラドの逆鱗に触れてしまい人間にされてしまった。恋愛男神であるが為に男性に対しては完全に無力である。
女性から経験値を貰う事が出来る能力を持っている。
わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

ヒロイン
エレシア・プリシス(えれしあ ぷりしす)
お側付き見習いでメイド隊の新人の天使。
誰とでも仲良くなれ、ちょっとドジで不器用だけど頑張り屋の性格。争い事は苦手。フィーメに憧れている
マーティスのメイドになる事を志願し、マーティスに認められメイド隊の一員になる。兄が一人いたが、ある事件でエレシアを守ろうとして魔族に殺された。
レジィナ・ファーラム(れじぃな ふぁーらむ)
魔族と人間のハーフ。
マーティスの前では素直だが、それ以外には素直になれずにメイド隊の中で少々孤立気味。
人前では優雅にみせているが陰では血の滲む努力をしている。いじっぱりで照れ屋。ヴェルナによく付き纏われている。
奴隷にされ毎日男たちの性処理道具にされていた所をマーティスに助けられ、メイド隊の一員になった。
ヴェルナ・ウイーナ(ヴぇるな ういーな)
良家のお嬢様で鬼人の血を引いている。
本や研究が大好きで、何かに没頭すると他には気が回らなくなる。突然の先祖返りで頭にツノが生えている。
亡き母の面影があり同じ境遇のレジィナのことが大好きで、レジィナの表情1つ1つが萌え萌えらしい。かなりのMである。
先祖返りの影響で人々に迫害され、10歳の時に母親が死に1人になり男達に陵辱されて続けていたが、マーティスに助けられメイド隊の一員になった。
リーシャ・アノス(りーしゃ あのす)
いつも元気な獣人族の猫娘。
メイド隊のマスコット的存在で、みんなの笑顔が好きその為みんなにまとわりついている。
頭を撫でて貰うのが大好き。同じ獣人族のファーファとは仲が良い。
両親に捨てられ、マーティスに引き取られメイド隊の一員になった。リーシャと言う名前はマーティスに付けてもらった。
ファーファ・クリューワ(ふぁーふぁ くりゅーわ)
実験により生み出せれたホムンクルスの獣人。
感情表現があまり出来ず、メイド隊のみんなと仲良くしたいがどう表現して良いか分からず自分を持て余している。
リーシャとは同じ獣人族なので仲良くしている。
暴走により研究員達を皆殺しにしたファーファをマーティスが保護し、メイド隊の一員になった。
フィーメ・アールヴ(ふぃーめ あーるヴ)
エルフの少女。
物腰穏やかで眉目秀麗。胸が大きいことを気にしているがレジィナやリーシャには羨ましがられている。
他のメイド達の姉的存在で、彼女らの過去を知っており何かと気遣っている。
生まれてすぐに捨てられ、マーティスに拾われ育てられた。マーティスは親であり恋人であり絶対の存在。
北条時子(ほうじょう ときこ)
物静かな大和撫子。
戦いの虚しさを知りながらも主であるマーティスや仲間の為に戦う。
目下のメイドたちを妹のように思っている。主に館の護衛をしている。
マーティスとは娼婦をやっていた頃に知り合い、メイド隊の一員になる。

サブキャラクター
絶対神フラド(ぜったいしんふらど)
神々の王。
絶対的な力を持っており神々達に使命を与える存在。次元を支える柱の容姿の為一切の移動行為が出来ない。
戦神達が別の使命の為に留守にしている為、マーティスにヴァルガに寄生した寄生魔神退治の使命を与えたが、「めんどくさい」と言われた為にキレて彼を人間にしてしまう。
大巨体神ヴァルガ(だいきょだいしんヴぁるが)
山のような巨体を誇る神。
体内に寄生魔神が寄生してしまった為腹痛で苦しんでいる。
超戦神ダルク(ちょうせんしんだるく)
戦いの女神。
数少ない戦神で他の戦神達のエース的存在。そのためダルクだけが超付けで呼ばれている。
現在別の使命のため留守にしている。
戦士系最強クラス「ダルク」へのクラスチェンジ用アイテムをくれる。
魔法神ルナ(まほうしんるな)
魔法の神。
キレると残虐非道になる。ダルクとはあまり仲が良くない。
魔法系最強クラス「ルナ」へのクラスチェンジ用アイテムをくれる。
エロス神ボーボ(えろすしんぼーぼ)
エロスの神。
エロい事にしか興味がまったくない神。神だがあまり強くない。女の子モンスターを使ったアダルトビデオの制作をしている。
恋愛女神ミラ(れんあいじょしんみら)
恋愛を司る神でマーティスの恋人。
男性の感情を管理を行う。女性には一切関与出来ないようになっている。(完全に無力になる)
寄生魔神ポート・ヌーヌ(きせいまじんぽーと ぬーぬ)
寄生魔神で四体いる内の一体。
ヴァルガの体内に寄生し破壊の為にモンスターを吐き出し続けている。
ロブディンナーグ(ろぶでぃんなーぐ)
神殺しの剣を持つデビルロード。
神々を倒し自分が唯一の神になろうとしている。
グウレイグ(ぐうれいぐ)
ロブディンナーグのパートナーのダークエルフ。
生まれてすぐに捨てられロブディンナーグに拾われ育てられた。ロブディンナーグは親であり恋人であり絶対の存在。
北条真名(ほうじょう まな)
時子の妹。
死んだと思われていたがマーティスが見つけだし引き取った。8人目のメイド隊になるべく勉強中。
格闘神タイガージョー(かくとうしんたいがーじょー)
虎頭の人物。
アイテムを大量に捨てたマーティスの前に突然現れる。
格闘系最強クラス「タイガージョー」へのクラスチェンジ用アイテムをくれる。
防御神アリエッタ(ぼうぎょしんありえった)
かえるにょ・ぱにょ?んに登場したアリエッタと同じ。同一人物かどうかは不明。
マーティスの前に現れて、防御系最強クラス「アリエッタ」へのクラスチェンジ用アイテムをくれる。

2009年01月27日

デハビランド モスキート

デハビランド DH.98 モスキート (de Havilland Mosquito) は第二次世界大戦中、主にイギリス空軍で使用された爆撃機で機体が木製であったため、「The Wooden Wonder」と呼ばれた。

モスキートはマーリンエンジンを両翼に1基ずつ搭載した双発機であり、コクピットには操縦士と航法士が並んで座った。ほとんど木材を使うという変わった構造で、当時でさえ時代遅れだと考える向きもあったが、生産にあたって家具など木工分野の工場も動員できる上、木製ゆえレーダーに察知されにくい、表面を平滑にできるため空気抵抗では金属製よりも優れるといった副次的なメリットもあった。

3つの異なる種類の試作機が製作され、爆撃機の試作であるW4050は1940年11月25日に初飛行を行い、それに続いて、1941年5月15日に夜間戦闘機型、同年6月10日に写真偵察機型が初飛行を行った。その他にも戦術爆撃機、先導機、昼間及び夜間戦闘機、攻撃機、写真偵察機など、幅広い任務に投入された。

開発史
1930年代からデハビランド社は、DH.88 コメットやDH.91 アルバトロスなどで合成木材と使った高速機の開発に実績があった。イギリス航空省 (Air Ministry) と新型爆撃機開発の指名を受けて契約したが、これまでデハビランドは長い間航空省と契約を結んでいなかった。航空機業界からの圧力と鉄とアルミニウムが不足している際、使用されていない家具業界の資源とデハビランド社の技術力を利用した木製の航空機が有用であると構想の屋台骨は決まったが、公式な方向性と釣り合わないと考えられた。

モスキートの試作機設計主任にロナルド・ビショップを据え、DH.91 アルバトロスを基に3箇所の機関銃砲塔と機関銃要員6名でマーリンエンジン2基を搭載したが、この設計では平凡な性能しか発揮しなかった。設計構想を何度かやり直し、エンジンを3基にする案もあったが、研究していくうちにまったく別の方向性に気づいた。それは、重量がかさむ必要のないものを全て取り除かれた。機関銃砲塔を1つ1つ撤去していくうちに、性能は次第に改善されていき、防御火器を必要としないほど高速ではないかと理解されるに至った。この結果、小型エンジン2基と乗員2名で機体の特徴が高速であること以外に何もない爆撃機が考え出された。それでも、1,000 ポンド (454 kg) 爆弾を搭載し、2,500 kmの距離を650 km/hで飛行できる性能だと算出された。

1938年の10月に航空省は、木製で武装を持たない爆撃機に疑問を拭いきれず、この構想を却下した。それと同時に、デハビランドに対して既存の爆撃機製造を持ちかけたが、デハビランドはこの構想に不安は点はなく、自社で開発を続けることを決意した。ウィルフリッド・フリーマン空軍大将の支持を得るに至って、1940年3月1日に試作機のB.1/40を含む50機が発注された。

設計と試作機の製造はすぐ開始されたが、ダンケルク撤退の後、イギリス空軍で戦闘機の不足が緊急課題となっていたため、既存の航空機を生産するようキャンセルされてしまった。7月には作業を再開できるようになったが、航空省は先の50機のうち、爆撃機20機と重戦闘機30機に変更した。これに加え、飛行に必要ないものを全て取り除いた専門の写真偵察機も試作するよう注文された。

爆撃機型
試作機を製造している間、バトル・オブ・ブリテンの激戦化で工場の稼働率は75%に落ち込んでいたが、最初の発注からわずか10か月後の1940年11月19日に昼間爆撃機型の試作機がロールアウトした。11月25日には初飛行を行った。

爆撃機型はB Mk. IVの基礎となり、B Mk. IVは227 kg (500 ポンド) 爆弾を胴体内爆弾倉に4個搭載することができる。両翼のハードポイント(パイロン)には増槽(燃料タンク)か227 kg爆弾のいずれかを2つ搭載できた。B Mk. IVは1942年5月に第105飛行隊へ引き渡された。

モスキート B Mk 35高高度爆撃機はMk. IXであったが、爆撃機として最も多数生産されたのはMk. XVIであり、約1,200機が生産された。爆撃機型のモスキートは4,000 ポンド (1,816 kg) 爆弾を爆弾倉に搭載できるようにまでなり、ブロックバスター爆撃機と呼ばれる。これはアブロに搭載して輸送するのに爆弾倉を膨らます拡張を施さなければならず、500 ポンド爆弾を最大で6個まで搭載できた。モスキートはパスファインダー・フォース(教導飛行隊, PF)に配備され、夜間戦略爆撃の目標に目印をつける役(パスファインダー)を演じ、当初から損耗率は高かったが、他の航空機で同じ任務を実行した際の損耗率と比べれば最も低く、モスキートは大戦終結まで投入された。

メッサーシュミット Me 262が配備されるまで、モスキートの爆撃に対抗するドイツ空軍の試みは成功しなかった。さらにドイツでも開発されていた高速爆撃機のコンセプトをさらに優れた形で実現させていることに注視した。
みかんいろ バリトン サーファ マスター ハンディー ニュルン すみのえ ロフルス タラップ ステン ハート フォロワー ダイヤ ディク ランド パーク カーブ シャト ラン トップ とうたい ジャン ルー メルク ニックス カレワ とうみょう ぶきいろい ディッシュ ラベル タオイズ ダイアモンド ショウ ベッド おじま ハイボー タイプライ 宇宙ステー ピンタック オートクチ ティンカー カラム モッコク ヤード きくらげ トータル ケトン ヒョウ メンバー チャンネル

戦闘機型
最初の戦闘機型の試作機(Mk II)は1941年5月15日に初飛行を行った。これを基に戦闘機型が設計され、F Mk IIとして生産された。胴体下にイスパノ 20 mm 機関砲4門と機首にブローニング 7.7mm 機関銃4門を装備した。爆撃機型と違って搭乗するドアの位置を胴体横に変更され、フロントガラスも改装され、防弾パネルを設けられている。

最初の夜間戦闘機型はNF Mk. IIであり、1942年1月に第157飛行隊にダグラス ハヴォックの代替として投入されたのを皮切りに466機が生産された。これはイスパノ 20 mm 機関砲4門を機体下前方に、加えてブローニング 7.7 mm 機銃4挺とAI Mk.IV機上レーダーを機首に搭載していた。

これらの夜間戦闘機の成功と、レーダーの存在を隠す必要から、ジョン「猫目」カニンガムに対し、「彼と他のパイロットたちはにんじんを食べることで驚くほど鋭敏な夜間視力を得ている」などというある程度の悪評がついた。これはイギリスがレーダーの開発をドイツ側に隠匿する必要性から起こした、偽りの情報の流布のためである。

夜間離陸を行うNF Mk XIII97機のNF Mk. IIは機上レーダーをAI Mk. VIIIに更新されNF Mk. XIIとなった。これと同性能のNF Mk. XIII 270機が生産されたが、これらは夜間戦闘時に発射炎が視力を奪ってしまうという理由から機首の機銃を撤去した。これとは別の夜間戦闘機型がMk. XV、Mk. XVII(Mk.IIからの更新型)、 Mk. XIX、Mk. 30である。後期の3種はアメリカ製のAI Mk.X機上レーダーを装備した。戦後、夜間戦闘機型はマーリン113/114エンジン装備のNF Mk. 36と、イギリス製AI Mk. IX機上レーダーを装備したNF Mk. 38の2種が作られた。一方、モスキート夜間戦闘機の機上レーダーに捕捉されていることをドイツの夜間戦闘機乗員に警告するために、ドイツはNaxos ZRレーダー探知機を導入した。

イギリス空軍だけでなく、アメリカ陸軍航空隊、オーストラリア空軍、カナダ空軍、ニュージーランド空軍、イスラエル空軍、さらにベルギー、ビルマ、中華民国、チェコスロバキア、フランス、ノルウェー、南アフリカ、ソビエト連邦、スウェーデン、トルコ、ユーゴスラビア、ドミニカでも運用された。なお、戦後になってアルゼンチンでは本機に空冷エンジンを積んだカルチーンを開発している。

写真偵察機型
最初の写真偵察機型の試作機は1941年6月10日に初飛行を行った。写真偵察機型はPR Mk. I モスキートの原型になり、1941年9月20日にPR Mk. Iがモスキートで初の任務に使用された。B Mk IVを写真偵察機に改造され、32機がPR Mk. IVとして運用されたが、PR Mk. VIIIを始め最初から写真偵察機として製造されている。

Me 262の実用化でモスキートの高速優位性は崩れてしまったが、主翼を延長、過給機を装備することで、高高度を高速で飛行できるPR Mk 32が開発された。42,000フィート(12,800メートル)で巡航できるPR Mk 32は要撃を回避できていたが、1944年12月にドイツの高高度戦闘機によって撃墜されてしまった。

戦闘爆撃機型
戦闘爆撃機型のFB Mk VIはモスキートの派生型で最多の2,718機が量産された。Mk IIを基に戦闘爆撃機型として設計され、1943年2月に初飛行を行った。爆弾倉には250 ポンド (110 kg) 爆弾、あるいは500 ポンド (230 kg) 爆弾のいずれかを2発、主翼下には1発ずつ搭載できた。1944年の前期には、イギリス空軍の沿岸軍団向けで対艦攻撃用に3インチ60ポンド (27 kg) ロケット弾を8発搭載できるようにもなった。

FB Mk XVIIIは大口径砲を搭載し、ツェツェ (Tsetse) というあだ名がある。陸軍の6ポンド砲をセミ・オートマチック、あるいはフル・オートマチックで射撃できるように改造したモリス 57 mm 6ポンドMクラス対戦車砲と7.7 mm 機関銃2門を搭載した。航空省は、このような航空機が有効利用できるわけないと考えていたが、実際に配備してみるとこれまでのロケット弾を上回る対艦攻撃力を発揮した。問題は6ポンド砲の狙いをつけている間は、低速で飛行しなければならなかったので、逆に艦船の対空火器に狙われやすかった。これは、ロケット弾で攻撃して抵抗力をあらかじめ弱めることで対処できた。